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Profile

写真:人物

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1964年3月24日生まれ。大阪府板金高等職業訓練学校卒業。小学生の頃から実家には板金があり、ものづくりに親しんでいた。父親の板金業を手伝いながら技術を習得する。ものづくり名人として内閣総理大臣賞を受賞した。現在は技術者として働く他に、母校である大阪府板金高等職業訓練学校の講師としても活躍している。子供の頃の夢は「時代劇の役者」で、そのために剣道もやっていて2段の腕前である。

Story

Chapter.01

幼少の頃 「すべては《サイコロキャラメル》の衝撃から始まった」

宮村が生まれたのは東京オリンピックが開催された1964年。
当時板金と言えばブリキが主流の時代であった。
子供の頃から板金技術者の父親の背中を見ていたこともあり宮村は身の周りにある板金で様々な物を作ったりして遊んでいた。
ある日、幼い宮村の目を釘づけにしたのは《サイコロキャラメル》であった。
サイコロの形をした箱を開いて「一枚の紙からこんなものが作れるんや。」と宮村は驚いた。

興味の対象は、年齢を追うごとに、対象物が《地球儀》になり、《バイクのタンク》になり、
街を歩きながら立体のものを見れば、すぐにあの日見た、《サイコロキャラメル》の一枚の紙のように分解してしまうのだった。

『面白い!!!』

工業高校を卒業後、昼間は父親の板金業を手伝いながら夜間で板金訓練校に通い展開図法など板金技術を学んだ。
このときに宮村は板金の基礎技術をしっかりと身につけていくことになる。

そして訓練校を卒業後、当時の教官から
「技能オリンピックに出てみないか?」
一つの誘いが来た。

技術者としての腕を試すいい機会と思い、宮村は出場を決意する。
そして見事大阪予選を勝ち抜き、そしてついには全国大会でも優勝した。

そこでさらに宮村に世界大会の話が舞い込んでくる。

Chapter.02

技能オリンピック世界大会での衝撃 「日本と世界、考え方の違い」

技能オリンピック世界大会に出場した当時若干20歳の宮村は日本では見たこともないような 「世界の板金技術」に触れることができた。

そこで感じたのは日本と海外との[考え方の違い]だった。

具体例として“はさみ”をあげると、「日本のはさみは隙間が空いていて金属を切りにくいがそのはさみを扱えるようになって一人前だ。」という考え方なのに対して、
逆に海外は切り易いはさみを最初から使い、
はさみの練習に割く時間を別のスキルアップのために使えばいいと言う合理的な考え方だった。

日本では「技術力は日本が一番だ。」と思っている人が多く、実際宮村もそう思っていた。
しかし、宮村は世界の合理性と技術のレベルの高さを実感した。

日本と世界のどちらも見る経験をえた宮村は、両方の良いところを取り入れて、宮村自身にしかできないことをしようと決心した。

Chapter.03

市場の転換 「住宅から飲食店へ/受注から造注へ」

日本の建築板金業界は予算を安くしようという考え方が多いの現状だ。
そのため『受注の為には価格競争』という考え方の会社が多かった。

少子高齢化が進展する中、住宅着工件数は確実に落ちる。
需要と供給が逆転すれば、当然価格競争になる。

よって、業界の反応は当然とも見える。

そんな中、宮村は考えた。

職人の技術の安売りは未来の若い世代の職人離れが起き良い技術者が居なくなりものづくり産業が衰退する。
本当に良いものと粗悪品との中身を見ずに価格比べをし、結局は後で後悔することになる。
予算を考えた上で適切な価格で良い商品を開発することで職人とユーザーの信頼関係を築き、
納品した時にお客様が喜ぶ笑顔が作り手の喜びである。
その為にはお客様の顔が見える位置で仕事をすること、すなわち、お客様と打ち合わせから納品までの直接のお取引。

『変えようと思えば変えられる。』という思いを胸に宮村は活動を開始する。
業界の人たちと一線を画した反応だった。

宮村は「仕事はもらうのではなく、取ってくるものだ!」という考えから、『いいものをつくってくれ。』と言ってもらえるような人達が集まるホテルやレストランのオープ二ングセレモニーといった場所に積極的に行き、板金アートを売り込んでいった。

Chapter.04

右手の怪我という試練

精力的に仕事をこなす宮村に試練が訪れた。1997年頃、はさみで板金を切っているときに、利き手の右手に激痛が走った。
我慢の限界に達してとうとう医者に診てもらうことにした。

診断結果は宮村にとって信じられないものだった。それは利き腕の右手親指の中手骨がなんと骨腫瘍になってしまった。
仕事での使い痛みだった。

宮村の右手はすぐに手術が必要との事だった。

しかし、親指の付け根あたりのところで神経が多く通る部分だけに『右腕が使えなくなるかも知れない』という不安が宮村を襲った。
加えて、右手が使えない間、仕事を休むわけにもいかない。

しかし、そんな不安と闘いながら宮村はすぐに試練に立ち向かう。
左利き用のはさみを特注し、なんと宮村は左手で板金を切る練習をしたのだ。
まるで「与えられたハードルに越えられないハードルはないんだ!」と表しているかのように。

その後手術は成功して一年のリハビリが終了した時、宮村は両手ではさみを扱えるようになっていた。

このことを振り返り宮村は語る。

「人生、悩むことはない。」

Chapter.05

さらなる試練

右手が回復した宮村は両手で同時にハサミやハンマーを使いこなし、1998年頃からは世界を視野にいれて走り出す。

同時にネット社会も加速し、海外のクライアントが宮村に作品をオーダーすることも徐々に増えはじめた。
海外での大掛かりな工事まで注文が入るようになり、「Camino di MW」というブランドも立ち上げて、国内外からの弟子達も育成しながら世界中で作品を作り続けていた矢先、2018年に大きな交通事故に遭遇する。
全身打撲で肋骨3本が折れ、両手両足も動かない状態で宮村はレスキュー隊に救出された。

当時それを見た人は宮村の後部から飛んで来た鋼材が頭の横を掠すめてフロントガラスを突き抜けて行ったのを目の当たりにし、生きてるのが奇跡のような事故だったと振り返る。

その日を機に2000年から18年間休むことなく毎日更新していた「宮村浩樹のブログ」もストップし、事故で大切にしてた道具や物はすべて失ってしまった。しかし、宮村は命が残った事に感謝し、地震や大雨などの災害が遭った時にはいち早く単身で救助活動や復興支援を優先し恩返しをしている。

2020年、世界はコロナウィルスで大変な状況であり、今までに仕事をさせていただいた方、お世話になった方へ、職人として人として恩返しをしながら新たな時代へ向かってさらに成長し自分のスタンスで走り続けています。